※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
永六輔さんの書いた『大往生』は、ベストセラー作品になりましたが、そのなかに「白内障の手術をしましたらね、まァ世の中がきれいに見えるようになって嬉しくなりました。でも、一つガッカリしましたのは、鏡でね。自分が婆さんだってことが、よくわかりました」というのが紹介されています。
私自身、似たような経験があります。中学時代の同窓会でのこと。「お前どうしたんや。頭が真っ白になって、ええおっつァんになったのう」と、久しぶりに会った友達から言われたのです。言った本人も、頭はハゲているのです。お互い大笑いでした。なかなか自分の老いの姿には、気づかないものです。
ところで、お釈迦様は、およそ二千五百年前、カピラ国の王子としてお生まれになりました。当時の庶民から見れば、幸せのかたまりのような存在だったわけです。
それなのに、二十九歳の時に、すべてを捨てて出家されました。その理由を大無量寿経には「老病死を見て、世の非常を悟る」と簡単に書いてあります。しかし、老病死のどれをみても、その一字一語のなかには、はかり知れない人間の涙と溜め息がこめられている、大変な問題であることに気づかされます。年をとって良いことは一つもない、と誰もが老いることを嫌います。ところが、いやでも老いていかなければなりません。老いとは、少しずつ時間が人間を滅ぼしていくことでありましょう。
「人間はいくつになっても、趣味をもち、スポーツ等をして体を鍛えて、心を明るくもって前向きに歩むことが大切です」とよく聞きます。本当にそうなのでしょうか。
確かに、趣味をもって日々を楽しく過ごすことも生きがいの一つだと思いますし、ゲートボールやウォーキングで体と心の平和を保つことも大切なことだと思います。でも、それが前向きかどうかは疑問です。前を向いた時、自分にとって都合の良いものばかりがあるわけではありません。
老や病、ましてや死の姿は想像するだけで不安になります。そうした人生の暗い部分を、心の奥に押し込んで、前向きの明るさをいくら演出したところで、それはただ自分の我執の殻に閉じこもっているだけに過ぎないのではないでしょうか。その姿は前向きどころか、『後向き』でしかないということになります。
では、どうすれば本当の意味で『前向き』になれるのでしょうか。それは『人間』そのものを問うことしかないと思います。つまり、私が人間として生きている意味をたずねることから始まるのです。その問いこそが、真実に目覚める機縁になるのだと思います。そして、その問いに答えてくれる教えこそ、真実と言えるのです。
親鸞聖人は「真実の教は、大無量寿経 是なり」と私たちにお勧めくださいました。ご一緒に聴聞してみませんか。
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