※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
門徒さんたちからよくいろいろみやげ話を聞きます。「ご本山ヘお参りして、国宝の鴻の間や、虎渓の庭など見せてもらってきました」「NHKの大河ドラマ『秀吉』のタイトルバックが、ご本山の勅使門や鴻の間だということで、親近感をもって見ています」「国立博物館で○○寺の国宝展を開催していました」など…。
そういえば、観光会社や公民館でのサークルが、お寺の文化財などを探索するツアーを企画して、お寺を探訪しているのによく出会います。
お寺は、それぞれ古い由緒をもっていますから、仏像とか、文書・工芸品、建築物など、文化財としてすぐれたものを伝承されていることでしょう。しかし、私はこのような発言を聞くと、ちょっと心に抵抗を感じるのです。お寺の宝物といったら、仏像とか工芸品のたぐいでしょうか。
むかし魏の国の王様が斉(せい)の国の王様と話すうちに、自慢話となりました。「私の国は小さいが、ゴルフ玉くらいの宝石が十個あります。その光は数十メートルに達しますよ。あなたの国にはさぞ…」。うながされた斉の国の王様は「残念ながら私の国には、金銀宝石のような宝物は、何ひとつありません。ただ、ダンシ、シュシュという立派な家臣がいて、忠実に責務を果たしてくれています」と答えたそうです。魏の王様は、どんな顔をなさったでしょうか。
最近、私のお寺の宝物であったご婦人の一人が亡くなりました。法座のたびに、まるでその方の指定席になったような座席に座って、ご講師の法話に首を振りふり「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と、聴聞されていました。月忌にお参りすると、私の後ろに合掌して座り、「もったいのうございます」「ありがとうございます」の繰り返しでした。それ以外に、別段変わったところはありませんでしたが、こういう方の存在が、どれほど法義を引き立て、住職を励ましてくださったか、計り知れません。
その方を失って、私は本物の宝物が宝物とされる理由がわかりました。その人が占めていた演台かぶりつきの指定席には、ちゃんと次の宝物が育ってその座を埋めているのでした。また、その家の若い奥さんが「お説敦があると、おばあちゃんがお寺へお弁当を持ってうれしそうに行くのが不思議でした。『後をたのむよ』と言い残されたので、お説教を聞きにお参りしました。こんなに大切なお話がお寺で聞かれるんですね」と法座の常連になられています。
宝物はそこに存在するだけで、ちゃんとそのつとめを果たしているのです。九州の方に「口で言うようにはせんが、するようにはする」ということわざがあると聞きました。口業(ことばの)説法よりも、身業(態度の)説法の方が効果ばく大なのです。あなたも宝物になれます。
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