※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
広島市の新聞社が小中学生を対象とした作文コンテストをしており、入選作が紙上に発表される。その発表作は感動性に富んでいて、心を打たれる。
ここまでは良いのだが、実は気になる現象がある。
入選作のほとんどが世羅郡など郡部の生徒の作文であり、広島市をはじめとする市部の生徒の入選は、極めて少ないのである。
生徒の数は郡部よりも、市部の方が圧倒的に多いはずである。その比率からすれば、市部の生徒が入選作の大半を占めるのが普通だと思われるのに、事実は、その逆も甚だしいのだ。
市部の生徒は作文を書かないのだろうか。書いても入選領域に到達しにくいのだろうか。
「たかが小中学生の作文コンテストの範囲のことだから」と放置しても差し支えのない現象かもしれない。しかし「人間社会の断層写真」を精神構造の角度から撮ったつもりで、ゆっくり観察してみた場合、考えさせられる現象ではある。
養殖ヒラメの生存率を向上させるために、ある水産試験場では魚の形をした模型を使って、本能を刺激する訓練をしている、とのニュースがあった。
いくら生存率が高まったところで、ヒラメは気の毒なものだ。結局は人間の身勝手な商業主義に翻弄され、食膳に提供されるのがオチだ。
この訓練を人間にそのまま適用することは無理だが、「本能」とか「養殖」とかの面では示唆される部分が少なくないと思う。
人間も「本能」には堪能であり「政治屋」や「宗教屋」の横行はご他聞にもれない。また、生存率ではないが、長命化を謳歌しながら本能にドップリと浸かった日常生活に安住したがっている。養殖されていると言われても仕方がない。ヒラメを気の毒がってばかりもいられまい。
一方では、言動のすべてに魅力の滲み出ている人もある。自分で努力して、豊かな精神世界を持っている人である。
一度限りの人生。この尊いいのちは自分の力ではなく、計り知れない「大いなる作用」によってもたらされ、浄土へ還る。いのちの不思議を感得させてもらい、大いなる作用を「本願力」と喜ばさせていただく。この喜びは人間にしか味わえない。
浄土真宗の聞法の座は、そのために開かれている。
小中学生の作文にしても、思いやり、感謝、知恩などの精神面をすなおに表現した文章が、すがすがしい感動を呼ぶ。いのちが輝いている。本願力を喜ぶことのできる下地が芽生えている。
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