※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
ちょっと、例え話をしてみましょう。燦然と輝く太陽の下では、たとえ百燭光の電燈でも少しも役に立ちませんし、ローソクの燈など、存在しないに等しい。そして、もし雲や霧が出たとしても、その下には闇がなく、いつも明るいですね。
このことを当てはめてみると、阿弥陀仏の「本願力」の独りばたらきがいかに素晴らしいものか、とてもやさしく理解できるのではないかと思います。
親鸞聖人は「阿弥陀仏の本願は、老いた人も若い人も、善人も悪人も、選ぶことなくお救いくださるが、ただ信心一つがなによりも肝要である」(意訳)といわれています。
ここには「信心を要とする」とあるので、「なんだ条件つきではないか」といった疑問が残るかもしれませんが、それはまったくの見当違いです。
なぜなら、聖人のいわれる「信心」とは、阿弥陀仏の真実心が私たちの心に届いてくださった姿をいい、それは「まかせよ! 必ず救う」という仏の呼び声を、自分の心で聞くことにすぎないからです。
煩悩具足(本来的に煩いや悩みの備わった)の凡夫(仏教を理解できない者)である私たちの本性を見抜いて、仏の方から「まかせよ! 必ず救う」と「南無阿弥陀仏」の呼び声を発しておられるというわけです。
この六文字(名号)をすなおに称えることは、仏の本願力(他力)である「心配するな! 大丈夫」というお慈悲に対して、「ようこそ! ありがとうございます」と応えることにほかなりません。
つまり「もしかしたらダメなのではないか」という疑い、それが晴れた私たちの心そのものを「他力の信心」というのです。
「歎異抄」第一章は、「本願をしんずるためには、いかなる善根も必要としない。念仏にまさる善根はないからである。また悪業を恐れる必要もない。阿弥陀仏の本願を邪魔できるほどの悪はないからである」(意訳)と結ばれています。
仏の前では、善人も悪人も、凡夫も聖者も、僧侶である私も、読者であるあなたも、まったく一線上に立って救われるのです。
太陽光の話に戻すと、私たちの本性は、みんな平等に、白日(仏の本願力)の下にさらされていることになります。
でも、私たちローソクや電燈は、太陽光(仏)をまぶしがるだけではいけません。信順し、ありがたく領受する気持ちになれることが望ましいのです。
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