まず、東西本願寺の歴史を簡単にふれてみます。
親鸞聖人を宗祖と仰ぐ本願寺教団は、かつて、現在の大阪城がある場所にお寺を構えていました。ところが、約425年前の第十一代宗主、顕如上人の時代に、織田信長が勢力拡大のため、寺地の明け渡しを要求。これをきっかけに「石山合戦」が起こりました。正親町天皇の仲裁で和議が成立したものの、宗主の長男、教如上人があくまで交戦を主張したため、教如上人は隠退の道を余儀なくされます。
顕如上人の没後は、三男の准如上人が継承。その時、当時天下をとっていた豊臣秀吉が本願寺に好意的だったことから、京都堀川六条に土地を寄進し、本願寺が建立されたのです。
しかし、後に勢力を占めた徳川家康は本願寺勢力を恐れて、その力を二分させるため、宗主の長男、教如に京都鳥丸七条に寺地を寄進します。そこに現在の東本願寺が建てられ、東西の本願寺に分かれることになったのです。東西というのは、あくまでも京都における地理的な方位から人々がそう呼んだもの。正式には、准如の流れを本願寺派、教如の流れを大谷派と言います。
今日、本願寺教団は、組織は別々でも、教えは同じことから「真宗教団逓合」を結び、連携してみ教えを伝えていこうとしているのです。
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