※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
ものを取リに部りへ入って何を取りにきたか忘れてもどることがあります。もどる途中でハタと思い出すこともありますが、そのときはうれしい気持ちになります。
「身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである。その用事は何であったか。いつの日か思い当たるときのある人は幸福である。思い出せぬまま僕はすごすごあの世へもどる」。(杉山平一)
酒席で出されたカニの足を目にして、冗談のように「ああ、カニの一生を食べてしまった」と言った友人がありました。この言葉は、重く大きく私の心に広がりました。
この世に、私が自分だけで作りあげたといえるものは何もありません。この身体からしてそうです。髪の一本、爪一枚、血の一滴にいたるまで、他からの頂きものででき上っています。私の目に入った、数えきれない多くの一生が、血となり肉となり骨となり、今日一日この人生を生きる力となってくれています。
「存在のすべてを他のために」「己を捨てて他を生かす」。それこそ「仏さま」としか言いようのない、尊いあり方によって、私は生かされているのです。
仏法は、私のあるべき姿、成らねばならない身の上、すなわち、私の「いのちの完成」を説くものであり、その実現の力、働きです。
念仏の衆生は、往生浄土を恵まれます。しかし、「たのしむと聞きて、まいるに非ず」(蓮如上人)です。「安楽浄土にいたるひと五濁悪世にかヘりては釈迦牟尼仏のごとくにて利益衆生はきはもなし」(親鸞聖人)。
この世の用はすでにおわかりですか。
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