※茉莉花掲載時の肩書きのまま掲載しております。
昨年8月、日本教育学会出席のため上京し、築地本願寺にお参りさせてもらいました。
折しも東京は台風の接近で、大荒れ。 都電の一部が浸水し、交通マヒに遭遇しましたが、 この機会に以前から念願の吉川英治記念館を訪ねました。
記念館は都心からずいぶん離れた多摩川の上流、青梅市にあります。 強風と叩きつけるような雨の中、電車を乗り継いで記念館に着いたのは会館前。 平素はたくさんの人が来られるのに、幸いにも、このときは誰一人として参観者がありません。 古い母屋を通って、洋室の書斎をのぞくと、床間に「吾以外皆吾師」の軸がかかっておりました。
吉川英治氏は父の経営する会社が倒産したために、11歳のとき小学校を中退し、 小僧奉公や工員などをしながら、独学で小説家になった人です。26歳のとき父を、 そして29歳のとき母を亡くした氏は、30歳のとき東京毎夕新聞社に入社。
そのとき社命により無著名で新聞に連載されたのが、処女作となった『親鸞記』ですが、 この本は関東大震災で社屋とともに焼失し、日の目を見ておりません。
氏はこれを機に文学に専念し、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』『新・平家物語』など、 多くの歴史小説を書き続けました。
42歳のとき、再び『親鸞』を執筆しますが、この原稿だけは毛筆で書いておられます。 これを見ていると、親鸞聖人に対する熱い思いが伝わってきます。
昭和35年に文化勲章を受章されたとき、懐中に母の写真を秘めて、 宮中へ参内した氏は、「菊匂ふ 母の写真も 笑めるかに」と詠われました。
そして2年後、ガンの再発により70年の人生を閉じられました。
記念館に展示してある「大衆即大知識」「生涯一書生」「不達不入」などの直筆を見ると、 「人間、いくつになっても未熟。すべてが教えられることばかりだ」と語りかけているようでした。
人生で出遇うさまざまなご縁をわが師として味わいながら、「おかげさま」といきぬきたいものです。
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